生まれ
1974年3月10日、喫茶店を営む両親のもと、私は、大阪府岸和田市に生まれました。
「勝人」という大それた名前は、両親の仲人で地元で大きな建材会社を営む方に付けていただいたようです。両親の喫茶店は、大阪府立大学の近くにあり、超繁盛店だったようです。ドトールもスターバックスも無い時代、バブル前の超高度成長期の喫茶店。どれだけ繁盛していたか想像もつきません。親父の話によれば、インベーダーゲームも常に待ちが出て、コーヒー、カレー、ゲームのシンプルなメニューで行列のできる繁盛店だったようです。あまりの忙しさに、毎日の買い出しの最中、私をスーパーに置き忘れ、カレーの仕込み中に思い出すというようなことも何度かあったようです。
喫茶店が忙しすぎるため1歳になる前に祖父母の家に預けられ、小学校に上がるまでは、月に2、3度両親が私の顔を見に来る、といったスタイルで育ったようです。
バブル
母方の実家が地元で時計、メガネ、レコード、宝石を扱う宝石店を営んでおり、男の子がいなかった母方の両親から誘われた父が手伝うことに。
喫茶店2店舗、宝石店、レコード店と、一気に4店舗の経営者となった父は、母と一緒に寝る間も惜しんで働いていました。
正月、バレンタイン、卒業式、入学式、結婚式、クリスマス、誕生日など、毎月イベントを絡めて売り出しをしていた記憶があります。店舗も最大10店舗、社員寮のためのビルも建築し、毎晩社員や業者仲間が出入りしている家で、いつも誰かが泊まっていたような記憶があります。お年玉や誕生日になると、かなりの額の祝いをもらえてました。
高校に進む頃から世間の様子が一気におかしくなり、高額のお年玉をくれていた社長達の出入りがなくなり、拡大志向一辺倒だった父の志向も変わってきました。それまでは、”目標100億円突破!”という紙を貼り出して、とにかく拡大拡大という事業方針で進めていた父が、”一物一価の高付加価値サービス”という方向に事業方針を変え、商品の仕入れ、店舗拡大、採用などのスタイルを一変させました。
19、20歳(じゅうく、はたち)の暗黒時代
バブル崩壊の予兆を感じ拡大志向の事業方針を止めたため父は、バブル崩壊の波にのまれることなく堅調に事業を進めていましたが、バブルの崩壊の予兆があり、販促一辺倒だった営業方針から、社員教育、サービス強化の営業方針に舵を切っていました。
それまでのように、イケイケドンドンでは、売れない時代になってきたため、親父もいろいろと苦労していたようです。
そんな中、私が2年も浪人するということになってしまいました。いろいろな意見があり、両親と話し合って予備校にも行かず宅浪することになり、2年間、塾講師のバイトをしながら浪人するという生活を送ってました。
楽しそうな大学生活を送っている同級生、成人式に誘ってくれる中学時代のヤンキーの友人達。大学生、社会人など、みんな立場がはっきりしていて本当に羨ましかったです。
片や私は、予備校生でもなく、フリーターでもなく、身分のない日陰者としてひっそりと世間と関わりも持たず暗黒の19歳、20歳の2年を過ごしました。
人材紹介会社へ就職
大学に入ってから実家の宝石店の手伝いをするようになり、中小企業の人材の悩みを目の当たりにしました。
社長である親父の視点で見た中小企業の採用の難しさ、働いている従業員の目線から見た転職の難しさを肌で感じておりました。当時は、キャリアという言葉も知りませんでしたし、いまほど、転職という言葉も一般的でなかった時代です。
就職活動を進める中で人材紹介業というビジネスを知り、1998年に新卒でリクルートの人材紹介会社(現リクルートキャリア)に入社しました。
中小企業の経営者の人材の悩みや働く人たちの仕事の悩みを、採用や転職を支援することで解決できると思ったからです。
当時は、ようやく一人一台パソコンが導入されメールアドレスが付与されたような、まだまだIT化が進んでいない時代でした。就職活動、転職活動についても、ハガキで応募しているようなアナログな時代です。 履歴書も、ほとんどが手書き。テキスト入力された履歴書や職務経歴書は人柄がわからない、ということで評価が低いような時代でした。
当然、企業からの採用相談、個人からの採用相談、求人と求職者のマッチングも、”人と人との直接のコミュニケーション”だけで成り立っておりました。
2000年頃にインターネットの時代が始まり、採用マーケットでも急速にIT化が進み、様々な形で、新しい採用のサービスが生まれています。
小さな人材紹介会社の提供価値
私は、1998年から2006年まで、インターネット業界の企業営業担当を6年、エグゼクティブ転職の部門で2年の計8年間、リクルートキャリアに在籍しておりました。社内のIT化が急速に進んだことで、”人と人との直接のコミュニケーション”よりも、データ作り、データベース上でのマッチング手法が重視されるようになってきました。
”人と人との直接のコミュニケーション”に価値を見出していた私は、リクルートキャリアを卒業し、ネットベンチャー企業へ転職。そこで、IPOを体験、新興市場に上場するネットベンチャーの執行役員という経験をしました。
2009年にコンサル業として独立。ご縁があり、2014年4月から人材紹介サービスをスタートさせました。
スタート当時は扱う業界を絞り、インターネット上で大量の求人情報をまとめた、業界特化型の求人ポータルサイトを運用していました。そのサイトを中心に”大量仕入れ大量システムマッチング”を展開し、ガンガン拡大する方向で事業を進めておりました。
しかし事業を進めていく中で気づかされることがありました。
転職活動は、googleなどでネットで検索をするだけで、いくらでも求人情報が得られてしまいます。
求職者の獲得は、大手が運営する転職登録データベースからの大量のスカウトメールが主流です。
こうした潮流の前では、当社のような弱小企業では力が及ばないことを実感しました。
オーダーメイドのアナログマッチング
私は、ワイシャツやスーツは、すべてオーダーメイドのものを着用しています。
数年前までは、既製品を着ていましたが、身長186cm75kgという体型には、既製品では、
手が短かったり、首回りや胴回りがぶかぶかだったりして、しっくりこない上、傷みも早いという状況でした。
オーダーメイドのワイシャツやスーツは、体のサイズを測ってくれるテーラーとじっくり会話をしながら、左右のサイズの違い、色や素材など、好みを聞き出しつつ、自分では気付かないサイズ感や色や素材をアドバイスしてくれ、そういったコミュニケーションを通じながらぴったりなワイシャツやスーツを一緒に作り上げていきます。また、既製品と違い納品されるまで一ヶ月近くかかる。
コミュニケーションの手間、待ち時間など面倒な作業も多いが自分のサイズや好みにぴったりな一生もののスーツ。
私は、人と企業を結びつける人材紹介というサービスにおいても、双方の要望や課題を丁寧にヒアリングし、ときには、お客様が気付いていない重要なポイントなどアドバイスさせていただき、人と企業がハッピーになれるご縁作りをさせていただけるよう取り組みたいと考えております。
ニュースター 寺田 勝人